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2012年2月でも衝撃を受けた私ですが、ボランティア参加者には長く活動をしている方もいましたし、1年間に何度も短期で来ている方もいらっしゃいました。地元の人も含めて、皆さんからいろんな話を聞きました。


被災者の心を痛めるかもしれませんのでここには書きませんが、遺体がどんな状態でどんな場所で発見されたこともあったのか、そんな話も耳にしました。考えれば想像できたかもしれないけれど、実際に聞くまでは想像もできませんでした。自衛隊や日本各県から来ていた警察・消防署員も心の病にかかることが多かったそうですが、そんな光景を見、実際に死ぬ思いを経験した被災地の人々の心のケアはまだまだ長い年月がかかるであろうことは容易に想像できます。





街が孤立してしまい、土砂で埋まったトンネルを町民たちの手で掘り起こした土地の話も聞きました。土砂とともに、たくさんの知っている顔の遺体や、どこから来たのかまったく知らない人の遺体まで見つかったこと。ここの町長さんは心の病にかかってらっしゃり、町に戻ることができないこと。町長さんである以前に、人としての限界を超える体験をされたのだろうと思います。


5月に、ある町へ単独でボランティアに訪れた方によると、その土地には迷彩服を着た自衛隊の姿しか見えなかったそうです。5月でもまだ一般ボランティアは立ち入ってない状況だったのですね。自衛隊の人数も多く、とても恐ろしい光景に見え、一緒に車に乗っていた方が「これ以上進みたくない、引き返そう」といって、引き返したこともあったそうです。

ニュースにもなっていた冷凍の海産物が腐敗していた時期。洗っても洗っても異様な異臭に包まれて匂いが取れなかった話をボランティアに聞きました。ハエが大量に発生し、太りすぎて飛べないハエも多く、大きなハエ採り紙が1日の終わりには1面にギッシリとハエでうまっていたこと。就寝時にもハエが顔にまとりついて寝れなかったこと。

スーパーがやっとオープンしたのが5月であること。

ある町で7月末に自衛隊が撤収する時には、町中の人々が野外へ出てずらりと並び、自衛隊退散の様子を見送って、感謝の気持ちを表された、そうです。



私は11ヶ月後もまだ解体を待つ家があることに驚きましたが、2011年5月、8月、10月などに何度かボランティアに訪れた人達は、皆、口を揃えて、ずいぶんよくなっていて驚いたとおっしゃってました。それほど以前は悲惨な状況であったということで、私が見たものなど小さなものにすぎないのでしょう。

まだ解体を待つ家がある、ということでなく、解体を待つ家が少しになっているというレベルにまで復興が進んでいた、と言うべきなのです。(家を建てるという状況はまだ先の長い話のようですが・・)



・・

一度、ボランティアセンターから1人で銭湯へ行く途中、立ち寄った場所で、地元のおじさんが震災直後の話を語りはじめたことがあります。遠野は被害がなかったが3日間電気がなかっために、情報がなかったこと。初日に被災地から200人が来ると聞かされ、受け入れの準備をしたけれども誰も来ない。翌日も別の場所で準備を進めたけれども誰も来ない。3日に自衛隊が登場して、初めてこれは大変なことだと思った、と。とうとう被災地からたくさんの人々が避難に現れ、炊き出しなどの準備をしたこと。近くの大型スーパーが避難場所になっていたこと,etc.etc.

家族を亡くし、自殺したいと言う人も多く、酒でも飲まないとやってられないということで、あの非常時にお酒を求める人がとても多かったこと。


・・・当時の状況をいろいろ話していたおじさんは、ふっと言葉を切り、「近くの被災地へ足を運ぶことができないんですよ」とおっしゃいました。

テレビで見たあの光景を、この目に焼き付けたくない。
用事があり、一度、遠くの被災地近くを通ってしまい、高速道路から見えてしまった。
もう見たくない。

近くの被災地へはとても訪れることができない。あれから一度も行ってないんです、と。


ああ。このおじさんが、いつの日か、慣れ親しんだ沿岸地区を訪れても心を痛めることのないぐらい状況まで、早くその姿を取り戻せるようにがんばりたい。心底そう思いました。

実際に被災した方ではなくても、こんなにつらく感じている。その思いを感じて私もつらかったです。


・・・同時に、おじさんの話をいくぶん不思議な思いで聞いていました。

ボランティアセンターでは誰かといつも一緒にいるので、一人で出掛ける機会はなく、この日銭湯にたった一人で雪の中を歩いていく・・というのは、偶然のような出来事でした。

被災された方は「話を聞いて欲しい」と言う人と、「話したくない」と言う人がいます。無理にこちらから聞かないこと、話し始めたら個人的な意見を挟まずにただ聞いてあげること、といわれてました。しかし実際にソフトの長期ボランティアではない私が、ひょんなことからおじさんの話を聞くことになろうとは思いもしてませんでした。言われるまでもなく、私にはただ単に、話を聞くことしかできませんでした。

数人でわいわいと訪れていたら、おじさんはそんな話をしなかったかもしれません。
しーんとしたその場所で、あるきっかけから、とつとつと、おじさんが(けっこう長い間)震災の話を語り始るのを、不思議な思いで聞いていました。どこか頭の隅で、銭湯に間に合わなかったら今日は仕方ないなと思いながら。(結局、銭湯も間に合いました)

どうして、おじさんの話を聞くことになったのか。

今回はボランティアセンターで素晴らしい人々に出会ったので、なにやら運命の導きのように感じてましたが(全然私は宗教的人間ではありませんが)、それもあって、自分はこのおじさんの話を聞く運命だったんだろうと思いました。おじさんの話を伝える義務があるんだろうと思い、ボランティアセンターへ戻って仲間へ聞いてもらいました。

「聞いて!」と宣言すると、みんな話を聞いてくれましたが、あとで仲間によると、この時私は「まるで大学生の姿そのもの」で、焼酎の一升瓶を抱え、興奮気味に語っていたそうです。興奮していたつもりはなかったけれど、伝えなくっちゃという使命感には燃えていました。


おじさんが、そして東北の人々があの美しい三陸の海岸に再び立つことができる日が来ることを願ってやみません。あの日、話を聞いてくれたボランティア仲間もそれと同じことを言ってくれました。







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